非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

私より上の水準

The Level Above Mine

❦

かつて私は、シャオグアン・「マイク」・リーに、自分の持っていた『確率論――科学の論理』を貸した。マイク・リーは少し読んでから戻ってきて、こう言った。

すごい……ジェインズって、まるで千歳の吸血鬼だ。

それからマイクは「いや、待って、どういう意味か説明するよ――」と言ったが、私は「いや、言いたいことはよくわかる」と答えた。ファンタジー文学では、吸血鬼は年を重ねるほど強くなる、というのがお決まりなのだ。

ジェインズに出会う前から、数学の証明は楽しんでいた。しかし、数学の議論から畏怖を覚えるほどの強さを感じたのは、E・T・ジェインズが初めてだった。ジェインズが、ベイズ主義への反論に使われてきた「パラドックス」を並べ、圧倒的な火力で粉砕していたからかもしれない。力が相手を打ち負かすために使われていたからだ。あるいは、ジェインズが数学を美的な遊びとして扱っていなかったからかもしれない。ジェインズは確率論を大切にしていた。確率論は、彼にとっても、私にとっても重要な、ほかの事柄と結びついていた。

理由はともかく、私がジェインズから感じるのは、恐ろしく速く完璧な何かだ。可能な限り最短の道筋で正答に達し、その同じ動きで、周囲のあらゆる誤りを八つ裂きにする何か。

もちろん、本を書くなら、自分のいちばんよい面だけを見せる機会がある。それでも、だ。

ジェインズを取り巻く、その恐るべき力量の気配を感じ取れたことは、マイク・リーの見識の高さを物語っていた。観察してきた限り、自分よりはるかに上の水準どうしは区別できない、というのが一般則だ。たとえば、ある人が真顔で私に、とても頭がいいのだから「大学に行くべきだ」と言ったことがある。自分より標準偏差一つ分ほどを超えて上になると、違いがぼやけ始めるのかもしれない。もっとも、これは響きが格好いいだけの、根拠のない推測だ。

だから、マイク・リーがジェインズを千歳の吸血鬼にたとえたのを聞いて、すぐに一つの問いが浮かんだ。

「私からも、同じ感じを受ける?」と私は尋ねた。

マイクは首を横に振った。「ごめん」と、少し気まずそうに言った。「ただ、ジェインズは……」

「いや、わかってる」と私は言った。ジェインズの水準に達したと思っていたわけではない。他人には自分がどう見えるのか、知りたかっただけだ。

私はジェインズの水準を目指している。ジェインズがベイズ確率論の達人だったのと同じくらい、人工知能と自己反省の仕組みの達人になることを目指している。私が極めようとしている技法は、ジェインズのそれより難しいのだと弁解し、敬意など台無しにすることすらできる。それでも、恥ずかしいことに、ジェインズが確率論を極めたほどに、今の私が極めている技法は何一つない。

これは必ずしも、一人の人間として自分をジェインズより下に置くことではない。ジェインズには運命の魔法めいたオーラがあり、自分にはない、と言いたいのではない。

そうではなく、私にはまだ達していない熟達の水準、圧倒的な力量の水準を、ジェインズに認めているのだ。自分の選んだ分野で力強く論じることはできる。しかし、それは方程式を書き下して、これで決着だと言うこととは違う。

まだその水準に達していない以上、永遠に達せない可能性、生まれ持った才能が足りない可能性を認めなければならない。マルチェロ・ヘレショフが私を十分長く知るようになってから、私よりも生まれつきの知性が明らかに高いと感じた人を知っているか、私は尋ねた。マルチェロは少し考えて言った。「ジョン・コンウェイ。夏の数学キャンプで会ったんだ」。くそ、と思った。誰か思いついたのか。しかも悪いことに、引き込めそうにない超有名な年配の人だ。どうしてそう判断したのか尋ねると、マルチェロは「頭の処理能力がものすごいという印象だった」と言い、コンウェイと一緒に取り組む機会があった数学の問題を説明し始めた。

聞きたい答えではなかった。

マルチェロがコンウェイと接した経験と私と接した経験とを比べると、コンウェイが数々の数学分野を極めていたほどに私が極めた分野で、まだ腕を見せる機会がなかっただけなのかもしれない。

あるいは、コンウェイの脳は私の脳とは違う方向に特化していて、私は数学でコンウェイの水準に近づけなくても、コンウェイはAI研究ではそれほどうまくやれないのかもしれない。

あるいは……。

……あるいは私は、あらゆる面でコンウェイに及ばず、厳密な意味で彼より頭が悪いのかもしれない。若いコンウェイの卵を見つけて基本を教えられれば、その人は私をあっという間に追い抜き、何年も私を悩ませてきた問題を解き、私にはついていけない場所まで駆け抜けていくかもしれない。

最後の可能性を認めることは、自尊心を傷つけるだろうか。そうだ。否定しても無駄だ。

この恐ろしい可能性を、私は本当に受け入れたのだろうか。それとも、受け入れたふりを自分にしているだけなのだろうか。ここではこう答える。「いや、受け入れたと思う」。なぜ、そこまで自分を評価できるのか。この恐ろしい可能性に備えて、具体的な努力をしてきたからだ。ここで文章を書いている理由はいくつもあるが、大きな理由の一つは、自分より若い誰かがこれを読み、私を追い抜いていく姿を思い描いていることだ。実現するかもしれないし、しないかもしれない。

あるいは、もっと悲しいことに、若い時期を丸ごと数学の勉強に費やす代わりに、自分を支えるための資源を整えることに時間を使いすぎたのかもしれない。数学的でない考えに若さを浪費しすぎたのかもしれない。そしてこの選択、この過去は取り消せない。40歳で越えられない壁にぶつかり、私が浪費した可能性をまだ持ち、学べる若さも残っている別の知性に、資源を渡すほかなくなるのかもしれない。だから、その人たちの時間を節約するため、成功に至った道筋を残し、間違いには警告の標識を立てておくべきなのだ。

自尊心を傷つける可能性を前提にした、こうした具体的な努力。自分にもあると言ってよいほど実質のある謙虚さとは、私にはこれしか思いつかない。あるいは、ジェインズが示した水準に達していないとわかって、大切な自説を手放したこと。あれはつらかったし、実質があった。控えめな態度など安いものだ。謙虚に疑いを認める言葉も安いものだ。反論を示されると、「私は間違うことのある人間にすぎませんから、もちろん私が誤っているかもしれません」と言って、そのあと、以前に計画したとおりのことを続ける人を、私はあまりにも大勢見てきた。

お気づきだろうが、私は控えめに、こんなことを言おうとはしない。「まあ、私はジェインズやコンウェイほど優秀ではないかもしれませんが、だからといって自分の分野で重要なことができないわけではありません」

なぜなら、わかっているからだ……物事は、そうはいかない。