非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

アインシュタインの速さ

Einstein’s Speed

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前の記事では、科学を超える力は、実は科学の社会的過程の、ごく普通で不可欠な一部だと論じた。特に科学者は、科学が考えを確認済みと認めるために求める決定的な実験より前に、どの考えを試すか決めるため、個人の合理性を使わなければならない。科学の理想は、この過程を規定しようとはしない。個々の科学者がどう考えるべきかを公的な権威が知っている、とは想定しないからだ。だが、それはこの過程が重要でないということではない。

わかりやすく、波風の立たない例を挙げよう。

ある科学者が、過去の実験で蓄積されたデータに、強い数学的規則性を見いだす。だが、その仮説はまだ、新しい実験的予測を出して確認したわけではない。その分野では、それが求められている。あまり苦労せず対照実験を行える分野なのだ。したがって、この科学者個人には、人類の公的知識として科学がまだ認めていないことを、確率1ではないにせよ信じる、わかりやすく合理的な理由がある。

大量の実験データに規則性を見つけることは、さほど非科学的には思えない。まだデータに基づいているのだろう?

だが、そう見えるのは、私がわざと波風の立たない例を選んだからだ。アインシュタインが一般相対性理論を作ったときには、水星の近日点移動を除けば、頼る実験データがほとんどなかった。そして、私の知るかぎり、そのデータも最後以外は使わなかった。

アインシュタインは、マッハの原理を使って特殊相対性理論を生み出した。これは物理学者版の一般化された反ゾンビ原理だ。まずこう言う。「閉じた部屋の中で、自分と部屋がどれほど速く動いているかわかるというのは、理にかなわない気がする。その数値は観測できるべきではないのだから、意味のある仕方で存在するべきでもない」。次に、マクスウェル方程式には、絶対的に見える伝播速度cが登場することに気づく。普通は「光速」と呼ばれるが、量子の方程式では、すべての基本的な波の伝播速度であるとわかる。そこで、一つの物体の絶対速度は意味のある形では存在せず、相対速度だけが存在するように、物理学を定式化し直す。もちろん、かなり省略している。だが、相対性理論には優れた入門書がたくさんある。量子物理学のひどい状況とは違う。

閉じた部屋の中の自分の絶対速度という概念を取り除けたアインシュタインは、次に絶対加速度を取り除こうとした。部屋の外の宇宙全体が静止したまま部屋が北へ加速する場合と、部屋が静止したまま宇宙全体が南へ加速する場合を、閉じた部屋の中で見分ける方法はないはずだ、と彼には思えた。宇宙全体が加速すれば、重力波が生じ、それが自分を加速させるだろう。したがって、動く物質は重力波を生むはずだ。

また、慣性質量と重力質量は常に正確に等しかった。電子とミューオンで質量が違っても電荷は同じになりうる、電磁気の状況とは違う。だから重力は、一種の慣性として現れるはずだ。地球は太陽の周りを、何らかの意味で「直線」に相当する道に沿って回るはずだ。そのためには、太陽の近くの時空が曲がり、地球の軌道をグラフに描けば、4次元の方眼紙上の線が局所的には平らである必要がある。そうすれば、慣性質量と重力質量は、単に偶然等しいのではなく、必然的に等しいことになる。

(今の説明がわからなかったなら、一般相対性理論にも、よい入門書がある。)

そしてもちろん、新理論は特殊相対性理論に従い、エネルギーを保存し、運動量を保存し、その他の条件も満たさなければならなかった。

アインシュタインは、曲がった時空の計量を記述する数学を身につけるのに、数年かけた。それから、備えているべきだと自分が考えた性質を持つ、最も単純な理論を書き下した。誰も観測したことはないが、ほかの物理法則の性格によく合うと思える性質も含めて。次に少し計算すると、それまで説明できなかった水星の近日点移動が、そこから出てきた。

これは、どれほどすごいことだったのか?

こう言ってみよう。1800年から分岐する別の地球の、ごく一部、ひょっとすると相当な割合では、相対論的な物理学は、私たちの量子物理学の大失態と似た道筋をたどったとしても、おかしくない。

エーテルに対する運動によって物理的な変形が起きるという、ローレンツ収縮のもともとの「解釈」が支配的になる、と想像できる。水星の近日点移動を説明するために、理由のわからないさまざまな補正係数がニュートンの重力力学へ付け加えられる、と想像できる。ローレンツ収縮のように、エーテルの奇妙な歪みのせいにされるのかもしれない。何十年にもわたり、別の天文観測を説明するための補正係数が追加される。十分に精密な原子時計を飛行機に載せると、高度が高いところでは予想より少し時間が速く進むとわかる。重力場が強いほど時間は遅く進むのだが、彼らはそれを知らない。そして、さらに補正用の「エーテル係数」が発明される。

やがてついに、経験的に定められた多くの「補正係数」が、一般相対性理論の単純な方程式へ統一される。

その別の地球の人々は言うだろう。「最終的な式は単純だ。だが、水星の近日点移動だけから、その答えにたどり着けるはずがない。非常に多くの追加の実験が要る。より強い重力場で時間が遅く進むことを測っていなければならず、星の周りで光が曲がることも測っていなければならない。それから初めて、エーテル重力の統一理論を思い描けるのだ。いや、完璧なベイズ的超知能にだってわかるはずがない! 近日点移動だけに合う場当たり的な理論なら、いくらでもあるのだから」

私たちの世界では、アインシュタインは、水星の近日点移動を、別の手段で得た答えの確認以外には使いさえしなかった。椅子に座り、宇宙はこうあるべきだと思う姿になるよう、自分ならどう設計するか考えた。たとえば、自分が一方へ加速するのと、宇宙全体が逆へ加速するのとは、区別できるべきではない、と。

そして、何年にもわたる長い机上の推論の連鎖を、軌道へ戻すための追加の実験的証拠が必要になるような間違いを、一つも犯さずに実行した。

ジェフリー先生でさえ、しぶしぶ感心しただろう。とはいえ、宇宙定数の件では一点か二点、減点しただろうが。私は減点しない。後に実在するとわかったからだ。私は、人が正しいときには批判しないようにしている。

確率論の観点では、この偉業をどう見るべきだろう?

惑星を観測して重力を説明する法則を推測する代わりに、アインシュタインはほかの物理法則を観察し、同じパターンに従う新しい法則を推測していた。重力で動く天体の運動に合う方程式を探していたのではない。すでに観測されていた方程式を包摂し、そこから計算して次に観測される方程式を予測できる、「物理法則の性格」を探していたのだ。

物理法則がどこから来るかは、誰も知らない。だが、一般相対性理論の成功は、物理法則の共通の性格が十分強く、その法則の精密な効果を必ずしも観測せずとも、ほかの法則を観察して、一つの法則の正しい形を予測できると示している。

(もちろん、一般的な意味では、ものが落ちることは観察から知っていた。だが、水星の正確な近日点移動から逆向きに推論して、一般相対性理論を得たわけではない。)

だからベイズ的な観点では、彼がしたこともやはり帰納であり、新しい証拠で更新される単純な事前分布、オッカム事前分布という考えで扱える。ただし、その事前分布は物理法則のありうる性格にわたるものだった。ほかの物理法則を観察することで、物理法則の性格のモデルを更新し、それを使って特定の重力法則を予測したのだ。

「物理法則の性格」という概念がなければ、彼のしたことは魔法に見えるだろう。はるかに足りない証拠から、ありうるすべての方程式の空間の中で、正しい重力モデルを拾い出したように。だが彼は、ほかの法則を見ることで、次の法則の可能性の空間を狭めた。物理が書かれた文字、答えを制約する条件を学んだのだ。魔法ではない。素朴な推論者が一つの法則だけの「モデル空間」と考えるものより、高い水準で、広い領域にまたがって推論したのである。

だから確率論の観点では、アインシュタインもなおデータに基づいていた。ただ、すでに持っていたデータを、より効果的に使ったのだ。天文観測や飛行機に載せた時計からの大量の追加データで、一般相対性理論を頭に叩き込まれる必要があった別の地球と比べれば。

ここから得られる教訓は、多数ある。

ありきたりでもアインシュタインを例にするのは、科学が確認していないことを知っていると、公然と認めた点でも珍しかったからだ。エディントンの日食観測が一般相対性理論を確認しなかったらどうしたかと問われ、彼は答えた。「そうなったら、神様にはお気の毒なことです。理論は正しいのですから」

科学についての一般的な考え方では、これは傲慢だ。個人的な考えにしがみつかず、実験の判定を受け入れなければならない、というわけだ。

だが、「アインシュタインの傲慢」で結論したように、ベイズ的な観点では、そこまで悪く見えない。そもそも一般相対性理論を提案し、結果として正しかった答えを考えるだけでも、理論空間の中で真の答えを特定するだけの証拠を、持っていたはずだからだ。理論にほぼ確信を置くことをベイズ的に正当化するには、ほんの少し余分な証拠があればよい。そして、仮説を自分の注意に上らせるのにちょうど必要な分の証拠しか持っていなかった、というのはありそうにない。

傲慢だと非難するなら、焦点は「だがアインシュタイン、自分が正しく推論したと、どうしてわかったのか?」になるだろう。それには、こうしか言えない。正しかった人を、そのとき批判するな! 間違う機会を待て! そうでなければ、自分より賢く考えている人を見分ける機会を失う。自分の好む思考の儀式から離れるたびに、批判することになるからだ。

あるいは、量子論をめぐるアインシュタインとニールス・ボーアの有名なやり取りを考えよう。当時の単一世界の量子論は、実験によって非常によく確認されているように見えた。科学の基準では、その混乱した量子論が、ただ勝っていた時代のことだ。

アインシュタイン:「神は宇宙を相手にサイコロを振らない」

ボーア:「アインシュタイン、神に何をすべきか指図してはいけない」

神と口論して勝てる人には、感心せざるをえない。

ベイズの眼鏡を外し、一日中、実際に何をしていたかという点から見れば、アインシュタインは、外へ出てものを観察し、追加データを集める代わりに、座って数学を学び、自分ならどう宇宙を設計するか考えていた。彼が成功させたのは、アリストテレスが自分にもできると思ったが、できなかった、高邁な知力だけによる偉業そのものだ。確率論の立場の話ではなく、一日中何をしたかという視点の話である。

科学は、科学者がこれをできるとは信用しない。だから一般相対性理論も、新たな実験的予測、日食時の光の曲がりについての予測を出し、検証するまで、人類の公的知識とは認められなかった。後に、その測定は信頼できる検証をするほど精密ではなく、ほぼ幸運によって一般相対性理論に有利になったとわかった。

だが、科学が科学者にそれをできるとは信用しないからといって、不可能ということではない。

ただし注意がある。歴史の本に、高邁な思考をした科学者の名が記されることがあるのは、それが簡単だからでも、信頼性が高いからでもない。先に到達した者に偏るバイアスだ。最少の実験的証拠からうまく推論した科学者が、先に真実へ着いた。純粋な偶然ではありえない。理論空間は大きすぎるし、アインシュタインは何度も続けて勝った。だが、謎を解こうと試みた人、あるいは十分な証拠があればいつか成功したはずの人々の中で、歴史が名を伝えるのは、成功して最初に到達した科学者だ。慎重に推論する方法を学ぼうとするときには、これを覚えておこう。

日常では、手に入る証拠は一片でも多く欲しい。実験があまりに高くつく、あるいは危険で、ほかに選択肢がない場合を除き、高邁な思考をうまくできることに頼ってはいけない。

だが、実験が高くつくことも、先に到達したいこともある。だから、乏しい証拠から推論する訓練を考えてもよいだろう。できれば、後で正誤がわかる場合に。資金規模の小さい予測市場で勝とうとするのは、よい訓練になるかもしれない。ただの推測だが。

少なくとも今のところ、現代の科学は、現代の科学者に、乏しい証拠からの推論を確実に教えることがまったくできていない。ひょっとすると、それは……さあ、どうだろう、そもそも試してさえいないことと関係するのかもしれない。

いや、今のは撤回する。どの科学分野でも、私が見た中で最もまともな思考は、進化心理学にある。自己欺瞞を理解しているからかもしれないが、しばしば、(1)乏しい証拠から推論する必要があり、(2)後で正しかったか間違っていたかわかるからでもあるかもしれない。合理主義者を目指す人には皆、慎重な推論がどんなものか一端を見るだけでも、進化心理学を学ぶことを勧める。特にトゥービーとコスミデスの「文化の心理学的基礎」を参照してほしい。1

アインシュタインのしたことは、彼だけにでき、普通の人には届かない超能力が必要だった可能性については……分析するのに別の記事が要るバイアスにぶつかる。こう言おう。彼の歴史上の仕事は、天才にしかできなかったのかもしれない。だが、素の知能でいう潜在的な天才は、歴史に残る超人的な達成者より、ずっと多いだろう。適当な数字を置くなら、世界級の天才になれる素質には、100万人に一人よりも珍しい高さのg因子までは必要ないと思う。それなら、今日、少なくとも6000人の潜在的アインシュタインがいることになる。そしてそれ以外の人も、持っている証拠を効率よく使うことを目指してはいけない理由は、見当たらない。

だが、最後に伝えたい教訓は、科学者個人は合理的に知っているが、科学はまだ確認していないという境界は、実験の山から強い規則性を見つけるような、無難にデータに基づいたものばかりではないということだ。ときには、科学があなたにできるとは信用しない、高邁な思考によって到達する。

「家では真似しないでください」とは言わない。「簡単だと思わないでください」と言おう。ここで論じているのは、素人の気軽な意見が専門科学者に勝つことではない。ある種類の専門的な努力が別の種類に対して、歴史上ときおり収めた勝利の話だ。机上の推論が負けた、有名な歴史上の多くの事例を、決して忘れてはいけない。

Tooby、Cosmides「文化の心理学的基礎」。 ↩︎