非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

適応を実行するもの、適応度を最大化するものではなく

Adaptation-Executers, Not Fitness-Maximizers

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個々の生物は、適応度の最大化者ではなく、適応の実行者として捉えるのが最もよい。

5万年前、ホモ・サピエンスの味蕾は、その持ち主を、最も乏しく最も重要な食料資源へと導いていた。糖分と脂肪、ひとことで言えばカロリーだ。現在では、味蕾が働く状況は変わったが、味蕾そのものは変わっていない。先進国では、カロリーは不足しているどころか、害をもたらしている。葉や木の実には安定して豊富に含まれていた微量栄養素がパンには欠けているが、味蕾は文句を言わない。ひとすくいのアイスクリームは、祖先が暮らした環境の何よりも多くの糖分、脂肪、塩分を含む超正常刺激だ。

自分の対立遺伝子の包括的な遺伝的適応度を最大化するという目標を意識的に持つ人間なら、飢えてでもいないかぎり、クッキーを食べることなどないだろう。だが個々の生物は、適応度の最大化者ではなく、適応の実行者として捉えるのが最もよい。

プラスドライバーは、設計者がねじを回すために作ったとしても、その機能を果たすべく自ら形を変え、マイナスねじに合わせたりはしない。こうした道具は私たちが作ったものだが、私たちから独立して存在し、その後も独立してあり続ける。

ドライバーを構成する原子の中に、「客観的」な目的を記述した小さなXMLタグが入っているわけではない。たしかに設計者は何かを思い描いていた。だが、それは現実世界で起きることとは同じではない。設計者と設計されたものが別々の存在であることを忘れると、「ドライバーの目的はねじを回すことだ」と考えるかもしれない。まるでそれが設計者の心の状態の性質ではなく、ドライバー自体の明示的な性質であるかのように。そうすると、ドライバーが自ら形を変えてマイナスねじに合わせないことに、驚くかもしれない。だって、ドライバーの目的は、ねじを回すことなのだから。

ドライバーが存在する原因は、設計者の心だ。その心が、想像上のねじを思い描き、想像上の柄が回るのを思い描いた。ドライバーが実際に働くこと、実際に本物のねじ頭に合うことは、ドライバーの存在の客観的な原因にはなりえない。未来は過去を引き起こせないからだ。だが、過去に実在したものである設計者の脳は、たしかにドライバーの原因になれる。

ドライバーが存在する結果は、設計者が頭の中で想像した結果と一致するとは限らない。ドライバーの先が滑って、使う人の手を切ることもある。

そしてドライバーの意味はと言えば、それは使う人の心の中に存在するものだ。ドライバーの原子に貼られた小さなラベルの中にはない。設計者は、ねじを回すつもりで作ったかもしれない。殺人者は武器にしようと買うかもしれない。そしてうっかり落とし、拾った子どもが、それをのみとして使うかもしれない。

つまり、ドライバーの原因も、その形も、その結果も、さまざまな意味も、すべて別々のものだ。そして、このうちドライバー自体の中に見いだせるのは、一つだけである。

味蕾はどこから来たのか? その結果を思い描く知的な設計者からではなく、凍結された祖先の歴史からだ。アダムは糖分が好きで、リンゴを食べ、子を残した。バーバラは糖分が好きで、リンゴを食べ、子を残した。チャーリーは糖分が好きで、リンゴを食べ、子を残した。そして2763世代後、その対立遺伝子は集団内で固定した。考えやすくするために、私たちはときどきこの巨大な歴史を圧縮し、「進化がそうした」と言う。だがそれは、人間の設計者がドライバーを思い描くような、短時間で局所的に起こる出来事ではない。これが、味蕾の客観的な原因である。

味蕾の客観的な形とは何か? 厳密に言えば、強化のための回路につながった分子センサーである。ここには、もう一段の間接性が加わる。味蕾自身が直接食べ物を手に入れているのではないからだ。味蕾は生物の心に働きかけ、その生物が、たった今食べたものに似た食べ物を食べたくなるようにする。

味蕾の客観的な結果とは何か? 現代の先進国の人間では、それは複数の因果の連鎖として展開する。もっとチョコレートを食べたいという欲求から、もっと食べようという計画へ、チョコレートを食べることへ、太ることへ、デートの機会が減ることへ、子を残しにくくなることへと。この結果は、味蕾の形を生み出した、祖先の長い成功の連鎖に見られる重要な規則性と、正反対だ。だが、食べすぎが問題になったのは最近のことなので、味蕾の形に、それ以降の大きな進化――祖先の歴史の規則性を圧縮したもの――はまだ影響していない。

チョコレートを食べることの意味は何か? それは、あなたと、あなたの道徳哲学の問題だ。個人的には、チョコレートはおいしいと思うが、もっと害が少なければよいのにと思う。チョコレートを設計し直すか、自分の生化学的な仕組みを設計し直すなら、どちらも受け入れられる解決策だ。

いくつかの概念を一緒くたにすれば、「現代の人間は、現代社会で遺伝子に役立つかどうかにかかわらず、狩猟採集社会なら遺伝子を広めていたはずの行動を、今もしている」と、一応は言えるかもしれない。だが、これもまだ正確ではない。私たちは、どの行動が祖先の包括適応度を最大化したはずかと、実際に自問しているわけではないからだ。それに、今の私たちの活動の多くには、祖先の時代に対応するものがない。狩猟採集社会には、チョコレートというものはなかった。

だから味蕾は、飢餓寸前の暮らしやリンゴや焼いたウサギを含む、祖先の時代の条件に合った適応であり、現代人はそれを、安いチョコレートや絶え間ない広告の集中砲火を含む新しい状況で実行している、と見るほうがよい。

ゆえに、こう言われる。個々の生物は、適応度の最大化者ではなく、適応の実行者として捉えるのが最もよい。

John Tooby、Leda Cosmides「文化の心理学的基礎」、Jerome H. Barkow、Leda Cosmides、John Tooby編『適応した心:進化心理学と文化の生成』(ニューヨーク:オックスフォード大学出版局、1992年)、19–136。 ↩