Yudkowsky Sequences 日本語訳
非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

自分を欺けると信じるな

Don’t Believe You’ll Self-Deceive

Kurigeばかりを責めているように見せるつもりはない。だが、Less Wrongに現れて、次のように言うなら、ある程度の追及は覚悟すべきだと思う。

ほかの大半のキリスト教徒と話すときに感じる隔たりを説明するのに役立つ、と気づいたことが一つある。どこかの時点で私の世界観は大きく変わり、盲目的な信仰から離れ、オーウェル的な二重思考の近くへたどり着いた、という事実だ。

「それが二重思考だと分かっているなら……

……どうしてまだ信じていられるんだ?」と、私は途方に暮れて言いたくなる。

あるいは、こうだ。

私は神の存在を信じることを選んだ——意図的かつ意識的に。だがこの決断は、神が実際に存在するかどうかには、まったく何の影響も与えない。

自分の信念が現実と相関していないと分かっているなら、どうしてまだそれを信じていられる?

「『空は緑色だ』と記した私の地図には、領土と相関する理由がない」と理解したなら、「ああ、待てよ。空は本当に緑色ではない」という腹の底からの理解が続くはずではないか?

ところが……どうやら、そうではない。

この謎の一部は、私がムーアのパラドックス(「雨が降っているが、私はそう信じていない」)について示した説明にあるかもしれない。人は、引用符つきの信念に結びついた肯定的な感情を内省するとき、それを実際に信じていることと取り違える、という説明だ。

だがもう一つには、私が当初憤然と主張したかったことに反し、「領土を反映する地図なら『X』と記すはずだ」から、実際に「X」を信じるところへ飛躍しないのは、かなり簡単だというだけなのかもしれない。心とは地図と領土の対応を作るものだ、という考えを説明するだけでも多少の手間がかかる。そして説明したあとでも、その含意を腹の底から理解させるには、さらに手間がかかるのかもしれない。

いまでは分かる。私が「意志の力だけで、空は緑色だと自分に信じ込ませることはできない」と書いたとき、私は既存の事実を冷静に報告していただけではなかった。自己成就的予言を植えつけようともしていたのだ。

「二重思考をうまくやり通すことはできない! 心の奥底では、真実ではないと分かってしまう! 自分の地図に領土との相関が何も期待できないと分かっているなら、それは自分がその地図を信じていないということだ!」と、意図的に繰り返して回るのが賢明かもしれない。

そうしておけば、いつか試したい誘惑に駆られても、「でも、これは本当ではないと分かっている!」、「自分を騙すなんてできない!」という考えが、いつでもすぐ心に浮かぶ。そうすれば、実際、うまく自分を欺ける可能性は低くなる。自分にXと言い聞かせても、Xが真になるわけではなく、それゆえ本当に、心から、非Xなのだと、腹の底から理解しやすくなる。

空は緑色だと意図的に信じることなどできない、と自分に言い聞かせ続ければ——どの水準であれ、自分を欺くことに成功しにくくなる。本当に信じるという意味でも、ムーアのパラドックス、信念を信じること、あるいは自己欺瞞を信じることに陥るという意味でも。

心の奥底では分かってしまう、と自分に言い聞かせ続けるなら——

精巧に作り上げた偽の地図を見ても、それが領土と相関する見込みのない偽の地図だと、ただ分かってしまうのだ、それゆえどれほど精巧に作った地図でも、少しも信憑性を感じられないのだ、と自分に言い聞かせ続けるなら——

地図が現実を反映していないとメタ水準で悟ったなら、内省的整合性が引き継いで、対象水準の信念をやめさせる、と自分に言い聞かせ続けるなら——

いざというとき、あなたは実際に失敗できるかもしれない。

意図的な自己欺瞞に取り組むときは、自分にはできないと信じなければならない!

その試みは失敗する、と自分に言い聞かせよ——そうすれば失敗する!

これは肯定的思考の力だろうか、それとも否定的思考の力だろうか? どちらであれ、賢明な予防策に思える。