非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

賢者のふりをする

Pretending to be Wise

❦

地獄で最も熱い場所は、危機のときに中立を保った者のために用意されている。

自分が成熟している、賢い、公平だ、あるいは単に高い視点に立っていると示すために、中立や判断の保留を演じるのは、よくあることだ。

一例は私の両親だ。「ほかの多くの事柄については立派な記録のある古代エジプトに、なぜユダヤ人がいた記録がまったくないの?」といった神学上の問いに、こう答える。「ああ、私もお前くらいの年には、そういう質問をしていたよ。でも今はもう卒業したんだ」

別の例は、校庭でけんかをしていて捕まった二人の子どもを前に、厳しくこう言う校長だ。「誰が始めたかは関係ない。大事なのは、誰が終わらせるかだ」。もちろん、誰が始めたかは重要だ。その決定的な事実について、校長には信頼できる情報がないかもしれない。だが、それならそう言うべきで、最初に殴ったのが誰かという点の重要性を退けるべきではない。保護者が校長を殴ってみれば、「誰が始めたかは関係ない」が裁判官の前でどれだけ通用するか、わかるだろう。だが大人にとっては、子どもがけんかをすること自体が面倒であり、どちらが始めたかは、自分たちの都合にまったく関係がない。けんかができるだけ早く終わることだけが、都合がいいのだ。

国際外交で、大国が小さな集団に、今すぐ戦闘をやめろと厳しく告げる場面も、同じような力学に支配されていると思う。大国にとっては、誰が始めたか——誰が挑発し、誰が挑発に不釣り合いな応答をしたか——は関係ない。大国がいま被っている不都合は、紛争が続いているかどうかだけで決まるからだ。ああ、イスラエルとハマスは、ただ仲よくしてくれないものか?

これを私は「賢者のふりをする」と呼ぶ。もちろん、賢さを示そうとする方法はたくさんある。だが、推測することを拒み、証拠を総合することを拒み、判断を下すことを拒み、どちらかの側に立つことを拒み、争いの上にとどまって、高みから見下す目を向けることで賢さを示そうとする——つまり、何も言わず、何もしないことで賢さを示す——それは、とりわけ気取った態度だと思う。

パウロ・フレイレは言った。「権力を持つ者と持たない者の争いから手を引くことは、中立であることではなく、権力を持つ者の側に立つことだ」。1先生たちが誰が始めたかを気にしないなら、校庭はいじめっ子には素晴らしい場所で、被害者にはひどい場所になる。国際政治も同じだ。大国がどちらの側にもつこうとせず、即時停戦しか要求しない世界は、侵略者には素晴らしく、侵略される側にはひどい世界だ。だがもちろん、大国や校長として暮らすには、とても都合のよい世界である。

だから、この振る舞いの一部は、賢者の側の純然たる利己心で説明できる。

だが一部は、高い視点にいると示すことにも関係している。考えてみよう。たかが子どものけんかで、本当にどちらかの肩を持っているように見える校長を、ほかの大人たちはどう思うだろう? それでは校長の地位が、単なる争いの参加者にまで下がってしまうではないか!

敬われる長老も同じだ。CEOかもしれないし、名高い学者かもしれないし、メーリングリストの創設者かもしれない。その公平さの評判は、ほかの人がどちらかの側を選んでいるとき、自分では判断を下さないことに依存している。両陣営は支援を求めるが、たいていは無駄に終わる。賢者が裁き手として敬われるのは、実際にはほとんど裁かないという条件つきだからだ。裁けば、争いの中のもう一人の論争者にすぎず、ほかのただの言い争う人たちと変わらなくなってしまう。

(不思議なことに、現実の法制度の裁判官は、実際の判決を繰り返し下しても、公平だという評判を自動的に失うわけではない。判断を下さなければならず、それが仕事だという規範が理解されているからかもしれない。あるいは、自分に敬意を払ってくれる集団を二分する問題について、繰り返し裁定しなければならないわけではないからかもしれない。)

判断を保留するのが合理的であり、判断に飛びつくのはバイアスのせいでしかない、という場合もある。マイケル・ルーニーが言ったとおりだ。

ここでの誤りは、哲学を学び始めた学生にいつも見かける誤りに似ている。懐疑的になる理由を示されると、代わりに相対主義者になってしまうのだ。つまり、ある問題について判断を保留するのが合理的な結論であるとき、あまりにも多くの人が、どんな判断もほかの判断と同じくらいもっともらしい、と結論してしまう。

では、それに関連するが別の問題である、擬似合理主義的な振る舞いをどう避けるか。いまある証拠の釣り合いは中立だと偽って主張し、自分の偏りのない公平さを示す振る舞いだ。「ええ、もちろん、熱烈なダーウィン主義者は大勢いますよ。でも、いまある証拠では、インテリジェント・デザインより自然選択をはっきり支持することは、実際にはできないと思います」

この点では、中立も一つの明確な判断であると覚えておくことを勧めたい。何かの上にとどまっているわけではない。特定の事例の証拠を総合すると、正当化されるまとめは一つだけであり、それがたまたま中立だ、という明確で特定の立場を提示しているのだ。これも間違いうる。中立の主張も、どちらかの側の主張と同じように批判の対象になる。

政策の問題でも同じだ。妊娠中絶に反対する側にも、選ぶ権利を支持する側にもよい点があり、もっと妥協し合って尊重し合うべきだと言う人は、中絶論争の典型的な二つの立場の上に立っているのではない。「中絶反対!」「選ぶ権利を!」と言うのとまったく同じくらい特定の、明確な判断を示しているのだ。

より正確な信念を形成する一般的な能力を高めることが目標なら、中絶やイスラエル・パレスチナ紛争のような、感情の絡む問題に集中するのを避けるのは役立つかもしれない。だが、合理主義者は成熟しているから政治の話をしない、ということではない。ただの政治的党派や若い熱狂家しか身を落として参加しないような愚かな争いの上に、合理主義者が立っている、ということでもない。

ロビン・ハンソンの説明するように、対立を生みかねない会話をする能力は、限りある資源だ。綱を横に引く方法を考えられるなら、追加の議論が比較的大きな追加の成果をもたらす、比較的取り上げられない問題に、限りある資源を使うのは正当だ。

だが、その場合、責任の優先順位を下げるのは、資源が限られているからだ。穏やかな賢者として高みに浮かんでいるからではない。

Hacker Newsでのポール・グレアムのコメントに私が寄せた返答は、ここでも繰り返す価値のあるまとめに思える。

次の三つは別のことだ。

  • 中立という判断を下すこと。
  • 追加の資源を投入しないこと。
  • そのどちらかを、深い知恵や成熟、高い視点のしるしであるかのように装うこと。それによって、もとの両陣営は低い視点におり、高みから見れば両者に重要な違いはない、とほのめかすこと。

Paulo Freire, The Politics of Education: Culture, Power, and Liberation (Greenwood Publishing Group, 1985), 122. ↩