非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

他人を最適化しようとすることに用心せよ

Beware of Other-Optimizing

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合理主義者を志す人が、他人の人生を最適化する自分の能力を、ひどく過大評価するという深刻な問題に気づいた。そして、それがどう生じるか、少しわかる気がしている。

あなたは、生産性、減量、節約など、自己改善について助言する19のウェブページを読む。書き手はみな、賢そうで、自分の方法に熱中している。自分にはどう役立ったかを語り、驚くような成果を約束する……。

しかし大半の助言は、検討する価値すらなさそうなほど、嘘っぽく聞こえる。そこでため息をつき、人はどんな馬鹿げたことにでも、ほとんど何にでも、あんな子どもじみた激しい熱狂を抱けるのかと、悲しく思う。4番目と15番目の助言は面白そうなので試すが……どうも……あまり……まあ、惨敗だ。助言が間違っていたのか、自分にはできなかったのか、どちらにせよ、何もよくなっていない。

それから20番目の助言を読む。あるいは、それ以上のことに、どのページにもなかった20番目の方法を自分で見つける。そして、なんということだ、今度は本当にうまくいく。

長い長い道のりの末、ついに本物の方法、正しい方法、実際に効く方法を発見した。だから、誰かがかつての自分と同じような困難に陥ったら、今度こそ助け方がわかっている。役に立たない19の助言を読み漁る手間を省かせ、正しい答えに直行させてあげられる。合理主義者の卵として、大半の人が耳を貸さないことはすでに学んでいるので、普段はわざわざ言わない。だが、この人は友人だ。気心の知れた相手で、話を聞いてくれると信頼し、尊敬している人だ。

そこで、親しみを込めてその肩に手を置き、まっすぐ目を見て、どうすればよいかを教える。

私自身、これをかなり頻繁に受ける。というのも……本当に効く方法を発見したとき……まあ、友人や家族に駆け寄って教えたりはしないほうがよいと、今ではわかっている。だがエリエザー・ユドコウスキーには、教えてみなければならない。彼にはそれが必要だし、彼ならわかってくれる可能性がかなりあるからだ。

実のところ、私にも理解するまで少し時間がかかった。重要な出来事の一つは、機械知能研究所(MIRI)の理事の一人が、インフレに合わせて給料を上げてもらう必要はないと言ったときだった。オンラインのクーポンサービスを使えば、食費を大幅に減らせるというのだ。私はそれを信じた。信頼する友人から、あれほど自信たっぷりに言われたからだ。そこで私の恋人がサービスを使い始めたが、数週間後には断念した。

さて、問題はここだ。まったく同じクーポンの助言を、どこかのブログで読んでいたなら、おそらくあまり気にも留めず、読んで先に進んだだろう。スコット・アーロンソンのように知性で知られる人の文章でも、読んで先に進んだはずだ。ところが、知っている友人から自分に直接伝えられたため、脳は違った処理をした。まるで、その秘訣を教えてもらっているかのように。実際、そんな口調で伝えられたのだ。少し遅れて、ようやく気づいた。個人的助言として言われただけで、そうでなければ単なるどこかのブログ記事だったのだと。別の賢い人が書いた生産性ブログの記事に比べて、私に効く確率が高くも低くもなるわけではなかった。

私を最適化しようとする人に大勢出会ってきたので、届く助言の幅広さは、生産性ブログ界隈と同じくらいだと証言できる。だが他の人は、大量の生産性向上の助言を見ても、効く助言には人によって違いがあるのだとは受け取らない。明らかに間違った、出来の悪い助言が大量にある、と受け取る。そしてついに、効かないほかのブログ記事とは違って効く、正しい方法を発見し、それを使ってエリエザー・ユドコウスキーを最適化しようとする。かなりよくあることだ。

誤解しないでほしい。助言が役に立つことも、うまくいくこともある。「ブルースと板挟み(Stuck In The Middle With Bruce)」は、私には響いた。新しいLess Wrongでこれまでに読んだ中で、最も役に立つ文章になるかもしれない。まだ確定はしていないが。

ただ、あなたの真剣な個人的助言、なんと本当に効くと発見したあのすばらしい方法が私に効く確率は、賢い書き手による適当な自己改善ブログの記事が、あなたに効く確率と変わらないのだ。

「人によって効く方法は違う」。この文に、嫌な感じを覚えるかもしれない。私は覚える。なぜなら、この言葉は暗黒面の認識論が批判を防ぐために使う道具でもあるからだ。「人によって真実は違う」という、単に間違った主張と、よく似た使い方をされる。

だが、ほぼ普遍的な一般則をつかむまでは、ある人には効き、別の人には効かない表面的な工夫を、理由もわからずあれこれ試すことになる場合がある。誰に何が効くかを決める一般法則を知らないからだ。できる最善のことは、それを覚えておき、「ノー」という答えを受け入れることだ。

相手に対する権力があるなら、なおさら「ノー」を受け入れられたほうがよい。権力は一般に、非常に危険なものであり、自覚しないまま、たやすく乱用してしまえる。乱用を防ぐ方法はあるが、実際に実行しなければ効かない。権力のある立場にいると、他者への共感や理解の能力が下がると示されている、という記事がOvercoming Biasにあったが、今は見つけられない。自分には権力がないと思い、だから慎重になる必要もないと思っていた合理主義者が、自分が恐れられているかもしれないと知って驚くのを、私は見たことがある……。

その人に効いた発見が、少しの意志力を必要とする場合は、さらに悪い。自分には効かないと言うと、答えは明白になる。ただ怠けているのだ。だから、正しいこと、つまり自分が見つけた実際に効く助言を実行させるために、あなたに圧力をかける必要がある、というわけだ。

人が怠けている場合も、あるのだろう。だが、そう決めつけ、権力を使って他人を「動かす」前には、くれぐれも慎重になってほしい。やる気を少し出せば、燃え尽きたり、人生がひどく苦痛になったりせず、実際にできることを見抜ける上司。そういう上司のもとでは、楽しく働ける。その能力はきわめてまれであり、持っている上司には、その体重分の銀ほどの価値がある。大半の人にはない、高度な対人技術なのだ。私には間違いなくない。善意だからといって、その能力があると思ってはいけない。自分がされたくないことは決して他人にしないからといって、あると思ってはいけない。誰からも文句を言われたことがないからといって、あると思ってはいけない。ただ怖がられているだけかもしれない。先ほどの合理主義者は、自分に権力や威圧する力があると思っていなかった。私には十分明白だったのだが、彼は自分を怖がる人がいるとは気づいていなかった。

相手を動かせる切り札を持つだけでも、注意してほしい。重要な決定や、脅しに使えるもの、相手が必要とするものを握っていて、突然、その人を最適化したい誘惑が抑えがたくなるときには。

アイン・ランドが客観主義者たちを支配した恐怖政治の全体も、まさにこの見方で捉えられると考えてみてほしい。権力と相手を動かす手段を手にし、最適化の誘惑に抗えなかったのだ。

私たちは、自分と他者の距離を過小評価する。推論上の距離だけではない。気質と能力、状況と資源、言葉にされない知識と気づかれない技能と運、心の内側の風景の違いもだ。

私ですら、自分にはとてもよく効いたXが、他人には効かないと知って、よく驚く。だが、あまりにも多くの人が私を最適化しようとしてきたので、少なくとも、その距離を頭に叩きつけられれば、存在を認めることはできる。

圧力をかけられるのは効くのかもしれない。あなたには。あなたは、自分に権力を持つ人が親切心で人生を正しく組み替えようとし始めても、胃がむかつかないのかもしれない。何があなたを動かすのか、私は知らない。意志力、わかっていても実行できないこと、生産性の領域でも、ほかの領域でも、ほぼ常に成り立つほど深い一般則を知らない。ある技法がいつ、なぜ、誰に効き、あるいは効かないかを教える、深い鍵を持っていない。できるのは、効かないと言われたら受け入れること……そして、どこでも成り立つ、もっと深い一般則を探し続けることだけだ。規則と例外の両方を支配する、いつか発見されるのを待つ深い法則を。