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これを教えてくれた人には大いに感謝すべきなのだが、誰だったか思い出せない。ジリアン・ラッセルによる12ページのエッセイ「武術における認識上の悪徳」1を紹介してくれたメールも、Overcoming Biasのコメントも、手元の記録には見当たらない。アンナ・サラモンだっただろうか?
私たちはみんな、ネクタイを締め、実用的な靴を履いて並び(ここはイングランドだった)、先生をまねて、左、右、左、右と突いた。その後、先生はこう教えてくれた。十分に熱心に空突きを3年間練習すれば、一撃で雄牛を殺せるようになる、と。
私はハワード先生を崇拝していた(もっとも、そのことを本人に話すくらいなら死んだほうがましだったが)。だから、痩せっぽちの11歳の少女だった私は、練習すれば14歳になるころには、一撃で雄牛を殺せるようになると信じるようになった。
このエッセイは、武術における認識上の悪徳を扱う。今の話は、まさにその実例だ。「viciousness」という言葉は普通、故意の残酷さや暴力を連想させるが、ここではもっと古い意味、つまり悪徳を備えていること、という意味で使う。
この話はどれも、驚くほどほかの分野に当てはまる。認識上の悪徳がどう生じるかについて、重要な観察をいくつかまとめよう。
- 武術そのもの、道場、先生が神聖視される。「道場で足の爪を赤く塗っているのは、ミニスカートとホルターネックのトップスで教会に行くようなものだ……ほかの武術の修練者は、間違った宗教を信仰しているかのように語られる」
- 先生が自分だけを呼び、特別な技を教えてくれて、それを20年間練習してきたのなら、その技への感情的な投資は大きい。その技に不利な証拠が入ってきても、捨てたくなるだろう。
- 入門したばかりの人に選択肢はあまりない。武術は本からは学べないので、先生を信頼しなければならない。
- 歴史上の有名な達人に対する恭順。「ランナーたちは、現代の『ランナーズ・ワールド』誌のスタッフのほうが、古代ギリシャ人全員を合わせたよりも走ることをよく知っていると思っている。歴史が分相応の位置に置かれているのは、走ることや、ほかの身体活動だけではない。十分に発達した研究分野なら、どこでも同じだ。物理学者がアイザック・ニュートンの理論は誤りだと言っても、無礼だとはみなされない……」(聞き覚えはないだろうか?)
- 「私たち武術家は、一種の貧困——データの貧困——に苦しんでいて、そのせいで自分たちの信念を検証しにくい……不幸にも白兵戦を戦っているのでない限り、首の骨を折るにはどれほどの力と、正確にはどの角度が必要なのか、確かめることはできない……」
- 「技の有効性を検証できなければ、その技を上達させる方法も検証しにくい。貫手は空を突いて練習すべきなのか、それとも、そうすると伸ばしすぎる癖がつくだけなのか?……戦い方を検証できないことが、練習方法を検証する能力も制限している」
- 「だが本当の問題は、単にデータが貧しい状況にいることではない。理論物理学など、まったく立派な学問分野にも、それは当てはまると思う。問題は、貧しいのに裕福であるかのように振る舞い続けること、言われたことは何でも信じても大丈夫なほど余裕があるかのように振る舞うことなのだ……」(+10点!)
このエッセイに書かれていたと記憶していたが、読み返すと実際にはなかったことが一つある。本物の闘いが減った後に武術が衰退した、という話だ。本物の闘いとは、互いに本気で傷つけようとし、ときには死者も出る闘いのことだ。
当時は、誰が本物の達人なのか、どの流派がほかの流派を打ち負かせるのか、ある程度はわかった。
それがすっかり文明的になった。そして衰退は進み、いまや黒帯何段と称する人が、実戦経験のある人に地面へ叩きのめされる動画がYouTubeに載っている。
この種の話で、本当に悲しい事例を一つ聞いた。ある流派の師範が、自分は気の技を使えると確信していたのだ。彼が気で攻撃すると、弟子たちは実際に倒れた。奇妙で、驚くべき、恐ろしい自己催眠か、あるいは何かの事例だ……そして師範は懐疑的な相手と対戦し、もちろん、徹底的に床へ叩きのめされた。
「負けない方法」は「勝つ方法」より広く役立つ情報だ、とはよく言ったものだ。ここに挙げた危険要因は一つ残らず、「合理性の道場」を始めようとするあらゆる試みに、そのまま当てはまる。そこで、あなたに問いたい。これにどう対処できるだろうか?
Gillian Russell, “Epistemic Viciousness in the Martial Arts,” in Martial Arts and Philosophy: Beating and Nothingness, ed. Graham Priest and Damon A. Young (Open Court, 2010). ↩︎