❦
狩猟採集の部族は、たいてい非常に平等主義的だ(少なくとも男性にとっては)。絶大な権力を持つ族長が見られるのは主に農耕社会で、私たちの祖先が進化した環境ではめったにいなかった。狩猟採集の部族の大半では、見事な獲物を仕留めて持ち帰った狩人は、妬まれないよう、自分の手柄を注意深く控えめに見せる。
出発点が平均以下なら、集団から抜きん出ようとしなくても、自分を向上させられるかもしれない。だが、できる限りのことをしようとするなら、遅かれ早かれ、目標を平均より高く置くことになる。
自分が他人よりよくできたと認められないなら——あるいは、他人よりよくできるようになりたいと思うことを恥じるなら——中央値は永遠にあなたの前に立ちはだかるコンクリートの壁となり、そこで前進が止まる。では、平均以下の人たちについてはどうだろう。その人たちよりよくできるようになるつもりだと、あえて言うのか。なんと傲慢な!
他人よりよくできることを誇りにするのは、健全ではないかもしれない。私自身は、自分の信条に反して、それが役に立つ動機づけになると気づいた。役立つ動機なら、得られるものは何でもいただく。その種の競争はゼロサムゲームなのかもしれないが、囲碁だってそうだ。人々が楽しみ、そこから面白いものが生まれるなら、その人間の営みを廃止すべきだということにはならない。
だがいずれにせよ、よりよくできることを恥じるのが健全でないことは、確かだろう。
それに、人生は相対評価ではない。自分を超えていこうとする意志には、ここから先は止まって、もっと悪くなろうとする意志へ変わる、という境界などない。ゴールのない競走には金メダルも銀メダルもない。ただ、ほかの走者を抜いてしまうかもしれないなどと心配せず、できる限り速く走ればいい。(ただし、ご注意を。その可能性を気にしないと決めれば、いつか本当に抜いてしまうかもしれない。結果を無視しても、その結果はあなたの身に起こりうる。)
自分の道が正しい方向へ進んでいれば、遅かれ早かれ、大半の人がまだ和らげていない欠点を和らげようとすることになる。努力が少しでも実を結べば、遅かれ早かれ、告白すべき罪が減っている自分に気づく。
成功しても、その成果を控えめに語るほうが賢明だと思うかもしれない。人はタッチダウンなら許しても、エンドゾーンで踊ることは許さないかもしれない。人前で自分の立派さを否定し、自分もほかの皆と同じくらい罪深いふりをするほうが、確かに手っ取り早く、簡単で、都合がいいだろう。もちろん、それが本当ではないと皆が知っている限りは。謙遜すべき立派なところがどれほどあるかを皆が知っているなら、謙虚さを誇らしげに披露するのも楽しいものだ。
だが、そこを旅の終着点にしてはいけない。自分にささやくだけでもいいから、それでもささやこう。強く、強く! もっと強く、もっと強く!
そして、もっと高い目標を自分に課そう。自分にはまだ欠点がある(少し減りはしたけれど)と気づくことの本当の意味は、それだ。恥じることなく、いつも、もっと高く手を伸ばすということだ。
強くなりたい! 私はいつだって、できる限り速く走る。先頭に立っても走り続ける。そしていつか誰かが私を追い越すだろう。だが、遅れを取っても、私はいつだって、できる限り速く走る。