Yudkowsky Sequences 日本語訳
非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

上限のない尺度、巨額の陪審評決、そして未来予測

Unbounded Scales, Huge Jury Awards, and Futurism

「精神物理学」は、その名前とは裏腹に、物理的効果と感覚的効果を結びつけるれっきとした学問分野である。音響エネルギーを空気中に放出して――音を立てて――いったとき、音響エネルギーの関数として、人にはどれほど大きく聞こえるのか? 人間の聞き手に音が二倍大きく聞こえるまでには、どれほど多くの音響エネルギーを空気中に送り込まなければならないのか? 二倍ではない。むしろ八倍ほどである。

音響エネルギーと光子は簡単に測定できる。音響刺激がどれほど大きく聞こえるか、光源がどれほど明るく見えるかを知りたいときには、普通は聞き手や観察者に尋ねる。「非常に静か」から「非常にうるさい」まで、または「非常に暗い」から「非常に明るい」までの、有界な尺度を使うことができる。また、ゼロを「まったく聞こえない」または「まったく見えない」とし、そこから上限なく増えていく非有界尺度も使える。非有界尺度を使う場合、観察者には通常、一定の刺激、すなわち固定された評定値を与えられた基準刺激(モジュラス)が提示される。たとえば、音の大きさを10と定めた音である。すると観察者は、その基準刺激の二倍大きい音を20と記すことで示せる。

これはかなり信頼できる手法だとわかっている。だが、被験者に非有界尺度を与えながら、基準刺激を与えなかったらどうなるか? 固定値の基準点がない、ゼロから無限大までの尺度である。当然、被験者は自分で基準刺激を作り出す。刺激間の比率は、被験者間で引き続き確実に相関する。被験者Aが、音Xの大きさは10、音Yの大きさは15だと言ったとする。被験者Bが音Xの大きさを100だと言うなら、被験者Bは音Yに150前後の大きさを割り当てるだろうと見当をつけられる。しかし、被験者Cが何を基準刺激――尺度係数――として使っているかわからなければ、被験者Cが音Xについて何と答えるかを予測する方法はない。1かもしれない。1,000かもしれない。

一つの音を、非有界尺度上で、固定された比較基準なしに評定する被験者の場合、分散のほぼすべては音そのものではなく、基準刺激を恣意的に選ぶことから生じる。

「ふむ」とあなたは思う。「これは懲罰的損害賠償について評議する陪審にそっくりだ。ばらつきがあれほど大きいのも無理はない!」興味深いたとえだが、どうすれば実験によって実証できるだろうか?

Kahnemanらは、陪審員資格を持つ867人の被験者に訴訟事例(たとえば、衣服に火がついた子供)の説明を示し、次のいずれかを求めた。

  1. 被告の行為がどれほど言語道断だったかを、有界尺度で評定する。
  2. 被告がどの程度処罰されるべきかを、有界尺度で評定する。
  3. 懲罰的損害賠償にドル額を割り当てる。1

すると案の定、憤りの評定と処罰の評定では被験者同士が非常によく一致した一方、懲罰的損害賠償の額はてんでばらばらだった。しかし、懲罰的損害賠償額の順位――最低額から最高額までの並び――は、被験者間でよく相関した。

「処罰」尺度の分散のうち、特定のシナリオ――複数の被験者に提示された個別の訴訟事例――で説明できるのはどれほどかと尋ねれば、生の評定値についてさえ答えは0.49だった。ドル回答の順位については、予測された分散の割合は0.51だった。ところが実際のドル額について説明できた分散は0.06だった!

つまり、提示されたシナリオ――先ほどの、衣服に火がついた子供の件――を知っていれば、処罰の評定についてはよい見当をつけられ、他の事例と比べたドル賠償額の順位についてもよい見当をつけられるが、ドル賠償額そのものはまったく予測できないということである。

無作為に選んだ十二件の回答の中央値を取っても、大して改善しなかった。

したがって、陪審が下す懲罰的損害賠償の評決は、経済的評価というより、態度の表明なのである――標準の基準刺激がない非有界尺度上に表された、憤りの精神物理学的測定値なのだ。

多くの未来予測も、同じように態度の表明と考えるのが最善だと私は見ている。「人間レベルのAIができるまで、あとどれくらいかかるだろう?」という質問を考えてみよう。私が見てきた回答は、てんでばらばらである。忘れがたいあるとき、主流派のAI研究者が私にこう言った。「五百年だ」。(!!)

さて、AI実現までの時間がどうしてまったく予測しにくいのかは、それ自体で長い議論になる。だが、「五百年」と言った彼が、未来をのぞき込んで知ったわけではない。また、ムーアの法則を使うお決まりのでたらめな手法でその数字を得たはずもない。では、500という数字は何を意味していたのか?

私に推測できる限りでは、これは私が「ゼロを『まったく難しくない』とする尺度で、AI問題はあなたにとってどれほど難しく感じられますか?」と尋ねたようなものだ。これが有界尺度なら、まともな回答者はみな右端の「きわめて難しい」に印をつけるだろう。やり方を知らないことは、何でもきわめて難しく感じられるものだ。しかし、ここにあるのは標準の基準刺激がない非有界尺度である。そこで人々は、「きわめて難しい」を表す数字をただ作り出す。それが50や100、ときには500になる。そして末尾に「年」をくっつければ、それが彼らの未来予測になる。

「AI問題はどれほど難しく感じられるか?」だけが代わりに答えられる質問ではない。「AIにどれほど肯定的な感情を抱いているか?」と尋ねられたかのように答える人もいる。ただし、数字が小さいほど感情は肯定的であり、やはり末尾に「年」をくっつける。だが、これらの「時間予測」が、標準の基準刺激のない非有界尺度上の態度表明以外の何かを表しているのだとすれば、それが何なのかを私は突き止められずにいる。

Daniel Kahneman, David A. Schkade, and Cass R. Sunstein, “Shared Outrage and Erratic Awards: The Psychology of Punitive Damages,” Journal of Risk and Uncertainty 16 (1 1998): 48–86, doi:10.1023/A:1007710408413; Daniel Kahneman, Ilana Ritov, and David Schkade, “Economic Preferences or Attitude Expressions?: An Analysis of Dollar Responses to Public Issues,” Journal of Risk and Uncertainty 19, nos. 1–3 (1999): 203–235, doi:10.1023/A:1007835629236.