非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

単一思考

Singlethink

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合理主義者としての歩みを始めた、その瞬間をはっきり覚えている。

『ご冗談でしょう、ファインマンさん』や、合理性についての既存の著作を読んでいたときではない。それらはただ、当然のこととして受け入れたからだ。旅が始まるのは、自分がすでに身につけている技に大きな欠陥を見つけ、もっと上達したい、本で見つけた役には立つが不十分な技を超える新しい技を生み出したい、という衝動に気づいたときだ。

私の最初の人生が終わろうとするころ、私は15歳で、ずっと幼かった時分の思い出を心の中で繰り返し、心地よい独善に浸っていた。それほど昔の記憶は曖昧だ。頭の中に映像はあるが、正確に何歳だったかは覚えていない。6歳か7歳で、その出来事はサマーキャンプで起きたのだと思う。

実際に何が起きたかというと、10代の男性のキャンプ指導員が、自分よりずっと幼い私たち男子を一列に並ばせ、こんな遊びを提案した。列の最後尾の子が私たちの股の間をはいくぐり、通り過ぎるその子のお尻を私たちがたたく。次は、新たに最後尾になった8歳の男の子の番だ。(私が幼い無邪気さを失っただけかもしれないが、どうしても勘ぐらずにはいられない……。)私はこの遊びに加わるのを拒み、隅に行って座っていろと言われた。

この記憶——お尻をたたくのも、たたかれるのも拒んだ記憶——は、私にとって、こんな幼いころから他人を傷つけることに喜びを見いだすのを拒んでいた証しになった。自分のお尻をたたかれる代償を払って、他人のお尻をたたく権利を買おうとはしなかった。他人を苦しめる機会のために、自分の苦しみを差し出そうとはしなかった。私はマイナスサムゲームに加わるのを拒んだのだ、と。

そして15歳のとき、突然、それは事実ではないと気づいた。マイナスサムゲームに反対するという原則に立って拒んだわけではなかった。囚人のジレンマについてはかなり幼いころに知ったが、7歳のときではない。ただ痛い思いをしたくなくて拒んだのだ。痛い思いをせずに済むなら、隅に立っているくらいの代償は払ってもよかった。

さらに大事なのは、私はそのことをずっと知っていたのだと気づいたことだった。本当の記憶はずっと心の片隅に潜んでいて、心の目が一瞬それをちらりと見ては、目をそらしていたのだ。

この道を踏み出すまさに最初の一歩で、私はその感覚をつかんだ——その主観的な体験から一般化した——そしてこう言った。「そうか、受け入れたくない真実を心の隅に押し込めるときの感覚って、これなんだ! これからはそうするたびに気づいて、心の隅を全部掃除してやろう!」

オーウェルの二重思考にならい、私はこの訓練を単一思考と名づけた。二重思考では、忘れたうえに、忘れたことまで忘れる。単一思考では、忘れようとしていることに気づき、思い出す。一度に心に抱くのは、矛盾のない一つの考えだけだ。

「単一思考」は、本で読んだものではなく、自分で生み出した初めての新しい合理主義者の技だった。学問上の先取権という意味で独創的だったかは疑わしいが、幸い、それは必要ない。

ああ、それから、15歳の私は物事に名前をつけるのが好きだった。

確証バイアスの恐ろしい深淵は、どこまでも続く。脳の複雑さは有限なので永遠ではないが、永遠に思えるほどには十分に長い。脳が物事を脇へ押しやる新たな仕組みを、あなたは次々と発見することになる(あるいは本で読むことになる)。

それでも、若き日の私は、その最初のほうきでずいぶん多くの隅を掃き清めた。