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立方数の列{1, 8, 27, 64, 125, … }を考えよう。隣り合う数の差を取った一次差分{7, 19, 37, 61, … }には、一見、明白なパターンがないように見えるかもしれない。だが、さらに差を取って二次差分{12, 18, 24, … }にすると、単純な関係のあるレベルに降りられる。三次差分{6, 6, … }まで取れば、完全に安定したレベルに行き着き、混沌は秩序へと解けていく。
だが、これは都合よく選び抜いた例だ。「ごちゃごちゃした現実世界」には、こうした抽象的な数学的対象の美しさはないのかもしれない。神経科学や遺伝子発現ネットワークについて話すほうが、適切なのではないか?
抽象数学は想像の中だけで作られるので、単純な基盤、すなわち少数の初期公理から生まれ、閉じた体系である。整然さに不自然なほど都合のよい条件に見えるかもしれない。
つまり、純粋数学では、茂みからトラが飛び出して、パスカルの三角形を食べてしまう心配はない。
では、現実世界は数学より醜いのだろうか?
人がこんなことを問うのは奇妙だ。いや、2,500年前なら意味のある問いだったかもしれない……。ギリシャの哲学者たちが、この「現実世界」とやらが何でできているのかを論じていたころには、さまざまな立場があった。ヘラクレイトスは「万物は火だ」と言った。タレスは「万物は水だ」と言った。ピタゴラスは「万物は数だ」と言った。
得点は、
| ヘラクレイトス | 0 |
| タレス | 0 |
| ピタゴラス | 1 |
表面の世界の複雑な形の下には、単純で、厳密で、安定したレベルがあり、その法則を私たちは「物理学」と呼ぶ。この発見、この大いなる驚きは、人類史上の今の時点ではすでに起こっている。だが、驚きだったことを忘れてよいわけではない。かつて人々は、見つかる保証などないまま、根底の美しさを探しに行った。そして、それを見つけた。今ではそれは、知られた、当たり前のことになっている。
それなら、なぜ六番目の立方数を予測するのと同じくらい簡単に、茂みの中のトラの位置をすべて予測できないのだろうか?
純粋数学の世界の中でさえ、不確かさの源は三つあると私は数える。明白なものが二つ、そう明白でないものが一つだ。
第一の源は、純粋数学の世界の中に埋め込まれて生きる、純粋数学の生き物であっても、その数学を知らないかもしれないことだ。ガリレオ、ニュートン、アインシュタインが、私たちが宇宙へ放り出されないようにしている重力の法則を発見するより、はるか以前から人間は地上を歩いていた。安定した基本規則を知らなくても、その規則に支配されることはある。物理法則は、その法則で動く脳の中に、知識として明示的に表現されていなければならない、という物理法則は存在しない。
私たちはまだ万物の理論を持っていない。現在の最善の理論は数学でできているが、互いに完全に統合されてはいない。最もありそうな説明は、過去にもそうだと判明したように、もっと深い数学の表面上の現れを見ている、というものだ。したがって、現実は数学でできているというのが圧倒的に最善の推測だが、どの数学なのかは、まだ完全にはわかっていない。
だが物理学者は、理論を見分けるために、つまり残っている不確かさを何らかの目に見える形で表すために、巨大な粒子加速器を建設しなければならない。不確かさを確かめるために、物理学者がそこまでしなければならないということは、株価についての私たちの不確かさが、ここから来るのではないと示唆している。
第二の明白な源は、関連する物理法則をすべて知っていても、その帰結をたどる計算能力が十分でないかもしれないことだ。アミノ酸の鎖がタンパク質へと折りたたまれるときに関係する、基本的な物理法則はすべてわかっている。だが、それでもアミノ酸からタンパク質の形は予測できない。1マイクロ秒で折りたたまれる、たった5ナノメートルの分子でさえ、現在のコンピューターには情報が多すぎるのだ。トラや株価は言うまでもない。タンパク質の折りたたみに関する最先端の取り組みは、基礎にあるシュレーディンガー方程式ではなく、巧みな近似を使っている。5ナノメートルの物体を、クォークにまで降りた本当に基礎的な物理で記述しようということになると、まあ、試そうとすらしない。
既知の物理と既知のDNA配列によって完全に決まっているタンパク質の形を知るために、私たちはX線結晶構造解析やNMRのような手段を使わなければならない。私たちは論理的に全知ではない。自分の考えが含意するすべてを見通すことはできない。自分が何を信じているのか、わかっていないのだ。
第三の源がいちばん理解しにくく、ニック・ボストロムはこれについて本を書いている。数列{1, 8, 27, 64, 125, … }が存在するとしよう。これを事実だとする。そして各立方数の上に小さな人が、一つの数につき一人ずつ立っているとしよう。これも事実だとする。
外側に立って全体を見渡し、立方数の列とその上の小さな人々を上から見下ろすなら、この二つの事実は、数列と人々について知るべきことをすべて述べている。
だが、あなたが立方数の上の小さな人の一人であり、この二つの事実を知っているとしても、予測するためには、まだ第三の情報が要る。「私はどの立方数の上に立っているのか?」だ。
あなたは立方数の上に立っているはずだと思う。7という数の上に立っているとは予想しない。基本的な物理の知識は、確かに予想を制約している。信念は反証可能なのだ。だが、それでも、1,728の上にいるのか5,177,717の上にいるのかを知るには、下を見なければならない。暗算が速ければ、4桁の立方数の最初の2桁が17__だとわかるだけで、最後の数字は2と8だと推測できる。そうでなければ、2と8も見る必要があるかもしれない。
夜空がどう見えるはずかを割り出すには、物理法則を知っているだけでは足りない。その帰結について論理的に全知であっても、まだ足りない。宇宙のどこにいるのかを知らなければならない。地球から夜空を見上げていると知らなければならない。必要なのは、観測可能な宇宙の中で地球を特定する情報だけではない。遠すぎて望遠鏡で見えない部分、異なるインフレーション宇宙、別のエヴェレット分岐まで含む、宇宙全体の中で特定する情報だ。
「境界での初期条件についての不確かさ」は、実際には自己の位置についての不確かさだと考えるのが有望だ。そうでないなら、それは経験的な不確かさ、すなわち全体を見渡したときに宇宙がどうなっているかについての不確かさであり、基本法則についての不確かさと同じ種類に属する。
「現実世界」にどうしようもなく雑然とした要素があるというのが最善の推測になるとき、それは第二と第三の源、論理的な不確かさと自己の位置についての不確かさによる。
基本法則を知らないからといって、ごちゃごちゃして見えるパターンが本当に雑然としているとはわからない。まだ秩序を見つけていないだけかもしれないのだ。
だが、複雑な遺伝子発現ネットワークについては、隠れた美しさ、つまり根底の物理の安定したレベルを、私たちはすでに見つけている。根本の秩序をすでに見つけたからこそ、生物学を立方数列ほど簡単にしてくれる、さらに別の隠れたパターンは見つからないだろうと推測できる。ゲームの規則を知っているので、そのゲームが難しいとわかるのだ。物理からタンパク質の化学を扱うだけの計算能力がなく(第二の源)、進化の道筋は惑星ごとに違う方向へ進んだかもしれない(第三の源)。基礎物理学の新発見は、ここでは助けにならない。
もしあなたが、生物学実験の生データを眺める古代ギリシャ人だったなら、すべてのタンパク質が完全な正二十面体に並ぶような、ピタゴラス的に優美な隠れた構造を探すほうが、ずっと賢明だろう。だが生物学では、その優美さがどこにあるかはすでにわかっている。そして、それはあまりに深いところにあり、自己の位置についての不確かさや論理的な不確かさを克服する助けにはならないとわかっている。
同じように、ある種の量子実験の結果は誰にも決して予測できないと確信できるのは、私たちの別々の版が別々の結果を見ると、基礎理論がはっきり告げるからにほかならない。基本法則の知識によって、立方数の列があり、各立方数に小さな人が一人ずつ立ち、別の数の上にいること以外はみんな同じで、自分もその一人だとわかるなら、どの数の上にいるかは、見る以外に導き出す方法がないとわかるのだ。
現在の最善の知識によると、「現実世界」は、完全に規則的で、決定論的で、非常に大きな数学的対象であり、そのシミュレーションには莫大な計算コストがかかる。だから「現実の人生」は、立方数列の次の数を予測することというより、たくさんの小さな人が立方数の上に立っていると知りながら、自分自身が誰かわからず、しかも暗算もあまり得意でない、という状況に近い。規則の知識は、予想をかなり強く制約するが、完全にではない。
ほら、これなら、現実の人生らしく聞こえるだろう?
だが、不確かさがあるのは地図であって、土地ではない。ある現象について私たちが無知なら、それは心の状態についての事実であり、現象そのものについての事実ではない。経験的な不確かさ、論理的な不確かさ、自己の位置についての不確かさは、私たち自身の戸惑いの名前にすぎない。現在の最善の推測は、世界は数学であり、その数学は完全に規則的だというものだ。雑然さは、見る者の目の中にしかない。
ブログ界の巨大な泥沼でさえ、この完璧な物理に埋め込まれており、究極的には{1, 8, 27, 64, 125, … }と同じくらい整然としている。
だからインターネットは大きな泥沼ではない……立方数の連なりなのだ。