非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

あなたの合理性は、私にも関わることだ

Your Rationality Is My Business

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「宝くじ――希望の無駄遣い」への反応の中には、他人の決断をよくも批判できるものだ、と私をたしなめるものがあった。他人が宝くじを買うと決めたのなら、私に異を唱える資格があるのか、というのだ。これは、もっと一般的な問いの一例である。他人が真実よりも心地よいことを信じようとするのは、私に何の関係があるのか? 真実を大切にするかどうかは、各自で決めてよいのではないか?

すぐ思いつく気の利いた切り返しはこうだ。「ほかの誰かが真実を大切にするかどうかを私が気にするかどうかを、なぜあなたが気にするの?」他人の効用関数に、さらに他人の効用関数についての項が含まれると、それを減点する項があなたの効用関数に入っているのは、いささか一貫性に欠ける。しかし、これは気の利いた切り返しにすぎず、答えではない。

そこで、私の答えはこうだ。私は人間として、未来に、そして将来人類文明がどうなるかに関心を持つのは、正しく適切なことだと考えている。その関心の一つが、人類による真実の追究である。それは世代を重ねて、ゆっくりと強まってきた(科学は昔からあったわけではないのだから)。私はこの世代で、その追究をさらに強めたい。それが未来に対する私の願いだ。なぜなら、その責任を引き受けるかどうかにかかわらず、私たちは全員、あの広大な盤上のプレイヤーなのだから。

だから、あなたの合理性は私にも関わることなのだ。

これは危険な考えだろうか? そうだ。しかも、ちょっと刺激的で心地よいというだけの「危険」ではない。ある聖職者が、その人の考え方はあるべき姿ではないと判断したために、人々は焼き殺されてきた。「正しく考えない」からという理由で人を焼き殺そうと決めるなんて、実におぞましい考え方ではないか? そんなふうに考えてほしくはないだろう。まったく、胸くそが悪い。そんな考え方をする連中は、そうだな、何とかしなければ……。

同感だ! そこで私の提案はこうだ。悪い考えには反論しよう。ただし、その考えの持ち主に火をつけるのはやめよう。

避けたい三段論法は、こういうものだ。「スージーは悪いことを言ったと思う。したがって、スージーに火をつけるべきだ」。この三段論法を避けるために、スージーが悪いことを言ったと考えること自体を不適切だと決めつける人もいる。誰も、決して、他人を裁くべきではない。人を裁く者は恐ろしい罪を犯しており、そのことで公の糾弾にさらされるべきだ、と。

私なら、したがっての部分を否定する。私の三段論法はこうだ。「スージーは間違ったことを言ったと思う。したがって、私はその発言に反論する。しかし、彼女に火をつけたり、暴力や規制によって彼女の発言を封じようとしたりはしない……」。

私たちは全員、あの広大な盤上のプレイヤーだ。そして未来に対する私の関心の一つは、そのゲームを公正なものにすることにある。科学の根底にある、直感に反する考え方は、事実に関する意見の相違は暴力や布告ではなく、実験と数学で決着をつけるべきだというものだ。この驚くべき考えは、科学を超えて、未来全体をめぐる公正な闘いへと広げられる。勝つには人々を説得しなければならず、人を火あぶりにすることは許されてはならない。これは、私が忠誠を誓った合理性の原則の一つである。

相対主義や利己主義を唱える人たちは、私には本当に相対主義的、あるいは利己的には見えない。本当に相対主義的なら、人を裁いたりしないだろう。本当に利己的なら、他人と熱心に議論する代わりに金儲けに取りかかるだろう。そうではなく、彼らは「相対主義」の陣営を選んだのだ。この陣営があの広大な盤上で目指しているのは、プレイヤーたち――すべてのプレイヤー――が、ある種の判断を下すのを阻むことだ。あるいは、「利己主義」の陣営を選んだ。その目標はすべてのプレイヤーを利己的にすることだ。そして彼らは、自らの知恵に応じて、公正に、あるいは不公正にそのゲームをする。

もし本物の相対主義者や利己主義者がいるとしても、私たちにその声は届かない。彼らは沈黙したまま、ゲームに参加しない。

私は、あなたの考え方を気にせずにはいられない。というのも――私には宇宙がどうしてもこう見えるのだが――人間が一人、真実に背を向けるたびに、展開していく人類の物語は少し暗くなるからだ。多くの場合、それはごく小さな暗がりにすぎない。(必ず誰かが傷つくことになるわけではない。)自分だけの思考の中で自分に嘘をついても、公の場で嘘をついたり人に火をつけたりするほど、人類の歴史に影を落とすわけではない。それでも、私の中には悲しまずにいられない部分がある。そして、あなたに火をつけようとせず、ただあなたの考えに反論するのであるかぎり、同じ人間たちを気にかけるのは、人間である私にとって正しく適切なことだと思う。これもまた、未来に向けて私が擁護していく立場なのだ。